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舞台の感想とか

レビューが悪すぎる舞台を観に行ったらめちゃくちゃ面白かった件

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NTで上演していたケイト・ブランシェット主演「When We Have Sufficiently Tortured Each Other」のレビューはひどいものだった。インディペンデントが星4つ、ガーディアン、テレグラフTimeOut3つ、ステージ、WhatsOnStageBroadwayWorld2つ、タイムズが1つなど(@Katsuki_london さんより引用)。感想は「時間の無駄」「世界一おもしろくない性描写」など酷評ばかり。しかし、キャストはケイト・ブランシェットはもちろんのことGOTスティーヴン・ディレインW主演、製作陣も普段は興味深い作品を生み出すチームだったので、逆にどういうメカニズムでつまらない舞台になっているのか気になって観に行ってみた。

 

結論から言うと、めちゃくちゃおもしろかった。

 

脚本は、劇作家マーティンクリンプがサミュエル・リチャードソン作の『パミラ、あるいは淑徳の報い』になぞらえて書いた新作。舞台は現代風の車庫の中、黒塗りのアウディが左側に、右側にはいかにも車庫といった工具や、スピーカーや、ヒーターがおいてある。外につながるドアは2つあるが、鍵がかかっていて外の景色は見えない。閉鎖された車庫の中で、6人の男女が『役』を演じながらBDSMプレイに興ずる、という内容だった。

 

ポイントは、集まった6人がどういう関係か、そして誰が『権力』を握っているかずっとわからないということ。舞台が進むにつれて、一見「一番乱暴に振る舞う男性」であるディレイン()がこの車庫でのSMプレイの権力者で、彼が他の5人を誘拐した後無理やり付き合わせているのではないかと思わせられる。しかしだんだんと『権力』がブランシェット()に移り変わり、男は怯える様子や戸惑う仕草を見せるようになる。時間が経つにつれ、召使風だったもう一人の女や、ただ部屋の隅で怯えるように情事を傍観するだけだった女子高生にまでコロコロと「権力」が移り変わる。そう、誰が本当の権力者で、誰が誰に対して本当に怯えているのか一切わからないのである。もしくは、権力者なんておらず、6人は平等な関係のただのSM愛好家なのかもしれない。【舞台の最後に、結局彼ら6人はどういう関係だったのか、「少しだけ」ほのめかすようなセリフがある(それでも全貌は明かされない)。】

 

誰が本当の権力者かわからないので、誰が怒っている時が、誰が笑っている時が本当の『緊迫した』場面なのかわからない。言ってみれば、誰を怒らせたらいけないのかわからない空間での時間が続くので、全てのシーンが緊迫した場面なのだ。

 

個人的に、私は最初から最後まで大いにこの舞台を楽しんだ。2時間ずっと緊張感に包まれ、ずっと誰が本当はなんなのかを考え続けていた。なぜか。これは、『閉鎖された空間』での『権力の移り変わり』を実際に身近に経験した人のほうが、圧倒的に楽しめる舞台だったからだ。自己を形成する過程において、家庭内での『権力の移り変わり』を機敏に察知しなければいけなかったり、緊張感を強いられハラスメントを受けるような過程で育った人だけが、本当の意味でこの舞台上で起こる事情を理解して観劇することができるのではないかと思わせられた。例えば、子供の頃常に家庭内の誰かを「怒らせてはいけない」と考えてそのプレッシャーの下に行動したり、笑いが次の瞬間怒号に変わるのを経験した人などはこの舞台をスリリングだと感じただろう。そうでない人には、ただダラダラと意味のわからないBDSMごっこ」が続いたように見えただろう。

 

この舞台は、性や暴力をエキセントリックで楽しめる演出箇所として観客に提示せず、BDSMやレイプ、同意なしの性行為などを直接的に見たまま、記号のように描いていた。なぜなら、これはそういう演出において観客を喜ばせる舞台でははなっからないからである。そこが楽しむポイントではなく、それらを記号と踏まえ、「誰」が「今」「何」をしているのか、誰が権力がぐるぐると移り変わるこの車庫の中で、本当の権力者(怒らせてはいけない人)なのか、を察知しようと思考を巡らせるのが、この舞台の楽しみ方だったのかもしれないと私は強く思った。なので、めちゃくちゃ面白かったし、何度でも見たいと思わされた。隣の席の男性は、今日が2回目の観劇だと言っていた、彼の家庭環境も複雑なのだろうか。