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舞台の感想とか

ジェノサイド女

『未開の議場』-オンライン版- 感想。

4月19日(日)20:00- が千秋楽です。

 

『未開の議場』の舞台は、zoomの会議。商店街の委員会が、お祭りのボランティアに20年以上前から地域に住んでいる「トメニア人」(架空の国名、チャップリンの『独裁者』からのオマージュ)の参加を認めるかどうかについての議論をする。

 

この時点で、「え、トメニア人はなぜ参加しちゃいけないの?差別では?」という疑問が視聴者に残るが、実はこの地域では以前からトメニア人を巡ってさまざまなしがらみや事件があったことが判明していく。

 

その中で、やけにトメニア人の肩を持つのが俳優のハマカワフミエさん演じる苗山みどり。

 

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苗山みどり(「未開の議場」-オンライン版-公式HPより)

 

商店街ではカフェを経営していて、会議中も自宅にあるキッチンでトメニア料理を煮込んでいるほどのトメニア好き。

 

苗山みどりの劇中の口癖は「みんな仲良く」。私の想像だと、苗山みどりのカフェのメニューは絶対無添加だし、ノンカフェインのドリンク展開が多く、実家で飼っているホームセンターから買ってきた8万ぐらいの絶妙な可愛くなさ加減のトイプードルの名前は「モカ」で(祖父母の家で飼っている雑種「ラッキー」をみどりの母は見下している)、小学校4年生の時に飼っていたペットのうさぎが脱走し車に轢き殺されたが、両親から「森に帰ったんだよ」と言われ未だに死んだと気づいてない。もし結婚したら、セックスのことを「なかよし」と呼び、妊活としてなかよしの後に逆立ちをする。それが苗山みどりである。(全部私の勝手な想像です)

 

簡単に言うと、普段は静かなのに「男子真面目にやってよ!」と半狂乱になりながら泣き始める女、それが苗山みどり。(全部私の勝手な想像です)

 

この苗山みどりが、その可愛い顔からは想像もつかないような、文化帝国主義者なのだ。

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文化帝国主義者になってしまった苗山みどり

 

文化帝国主義とは、端的に言うと「この国は発展していないし、なんか弱そうだから、偉大なる我が国の文化と言語に染めて、発展させてあげようね!」という考えである。つまり、相手の人種や文化を「自分と同等」と認めていないから起きる事象なのだ。行き着くところはジェノサイドである。文化と人種の殺戮。苗山・殺戮・みどりである。

 

一見平和主義者で、「ふつうの日本人」の苗山みどりは冒頭から、キッチンでトメニア料理を煮込みながら登場し、口癖は「みんなとなかよく」。トメニア人がボランティアとして参加すべきかどうかの多数決にも、もちろん賛成。しかし一見善人的に見えるそれも全て、苗山・ジェノ・みどりの根底の意識に、恐るべき文化帝国主義が根付いているからなのである。

 

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全ての人民が平和的友愛を保つよう指導する苗山みどり

 

「ふつうの良心的な日本人」が恐ろしいなと思うのは、例えば外国人に悪びれもなく「鼻が高くていいね!」「足が長くてきれいだね!」などと人種的特徴である見た目について発言してしまったり、白人コンプレックスのため「白人=自分より上の存在」(この時点で同等な人間扱いをしておらず、優れたものと判断している場合でも明らかな差別)という意識が露見することなどにある。また、今だに「日本」が先進国であり、「他のアジア諸国」(特に東南アジアなど)を自分より下に見ている人も少なくはないと感じる。しかし、これらの多くが彼らにとっては「普遍的な価値観」であり、差別をしているという意識を持つ人は少ないであろう(マイクロアグレッションを参照)。これらは全て、作中の苗山・帝国・みどりにもあてはまる考えだと思う。

 

話を劇中に戻そう。商店街の実行委員会のメンバーは、トメニア人の参加を巡って一悶着もふた悶着もするのだが、それを毎回止めるのがジェノ山みどりである。「なかよくしましょうよ」「どうしてなかよくできないんでしょうか」。しかし、彼女の劇中のある一言で、根底の部分にある帝国主義が露わになってしまう。今までトメニア人に親切にしていたのも、平和(なかよし)を望んでいたのも、全ては彼女がジェノ山みどりだったからこそ。それをふまえてそれまでの彼女の言動を思い返すと、「ふつうの日本人」的思想がどれほど残酷で恐ろしいものか気付かされる。

 

『未開の議場』-オンライン版- の千秋楽は4月19日(日)、20時からyoutubeにて公開。(HOME - 未開の議場オンライン版 公式HP

 

あなたは、苗山みどりの恐怖に耐えられるか。

 

 

 

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追記:記事の演出上、「可愛い顔」などとして劇中の苗山みどりというキャラクターに対し、ご本人の許可なくハマカワフミエさんの容姿について言及してしまい、申し訳ありませんでした。

 

 

レビューが悪すぎる舞台を観に行ったらめちゃくちゃ面白かった件

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NTで上演していたケイト・ブランシェット主演「When We Have Sufficiently Tortured Each Other」のレビューはひどいものだった。インディペンデントが星4つ、ガーディアン、テレグラフTimeOut3つ、ステージ、WhatsOnStageBroadwayWorld2つ、タイムズが1つなど(@Katsuki_london さんより引用)。感想は「時間の無駄」「世界一おもしろくない性描写」など酷評ばかり。しかし、キャストはケイト・ブランシェットはもちろんのことGOTスティーヴン・ディレインW主演、製作陣も普段は興味深い作品を生み出すチームだったので、逆にどういうメカニズムでつまらない舞台になっているのか気になって観に行ってみた。

 

結論から言うと、めちゃくちゃおもしろかった。

 

脚本は、劇作家マーティンクリンプがサミュエル・リチャードソン作の『パミラ、あるいは淑徳の報い』になぞらえて書いた新作。舞台は現代風の車庫の中、黒塗りのアウディが左側に、右側にはいかにも車庫といった工具や、スピーカーや、ヒーターがおいてある。外につながるドアは2つあるが、鍵がかかっていて外の景色は見えない。閉鎖された車庫の中で、6人の男女が『役』を演じながらBDSMプレイに興ずる、という内容だった。

 

ポイントは、集まった6人がどういう関係か、そして誰が『権力』を握っているかずっとわからないということ。舞台が進むにつれて、一見「一番乱暴に振る舞う男性」であるディレイン()がこの車庫でのSMプレイの権力者で、彼が他の5人を誘拐した後無理やり付き合わせているのではないかと思わせられる。しかしだんだんと『権力』がブランシェット()に移り変わり、男は怯える様子や戸惑う仕草を見せるようになる。時間が経つにつれ、召使風だったもう一人の女や、ただ部屋の隅で怯えるように情事を傍観するだけだった女子高生にまでコロコロと「権力」が移り変わる。そう、誰が本当の権力者で、誰が誰に対して本当に怯えているのか一切わからないのである。もしくは、権力者なんておらず、6人は平等な関係のただのSM愛好家なのかもしれない。【舞台の最後に、結局彼ら6人はどういう関係だったのか、「少しだけ」ほのめかすようなセリフがある(それでも全貌は明かされない)。】

 

誰が本当の権力者かわからないので、誰が怒っている時が、誰が笑っている時が本当の『緊迫した』場面なのかわからない。言ってみれば、誰を怒らせたらいけないのかわからない空間での時間が続くので、全てのシーンが緊迫した場面なのだ。

 

個人的に、私は最初から最後まで大いにこの舞台を楽しんだ。2時間ずっと緊張感に包まれ、ずっと誰が本当はなんなのかを考え続けていた。なぜか。これは、『閉鎖された空間』での『権力の移り変わり』を実際に身近に経験した人のほうが、圧倒的に楽しめる舞台だったからだ。自己を形成する過程において、家庭内での『権力の移り変わり』を機敏に察知しなければいけなかったり、緊張感を強いられハラスメントを受けるような過程で育った人だけが、本当の意味でこの舞台上で起こる事情を理解して観劇することができるのではないかと思わせられた。例えば、子供の頃常に家庭内の誰かを「怒らせてはいけない」と考えてそのプレッシャーの下に行動したり、笑いが次の瞬間怒号に変わるのを経験した人などはこの舞台をスリリングだと感じただろう。そうでない人には、ただダラダラと意味のわからないBDSMごっこ」が続いたように見えただろう。

 

この舞台は、性や暴力をエキセントリックで楽しめる演出箇所として観客に提示せず、BDSMやレイプ、同意なしの性行為などを直接的に見たまま、記号のように描いていた。なぜなら、これはそういう演出において観客を喜ばせる舞台でははなっからないからである。そこが楽しむポイントではなく、それらを記号と踏まえ、「誰」が「今」「何」をしているのか、誰が権力がぐるぐると移り変わるこの車庫の中で、本当の権力者(怒らせてはいけない人)なのか、を察知しようと思考を巡らせるのが、この舞台の楽しみ方だったのかもしれないと私は強く思った。なので、めちゃくちゃ面白かったし、何度でも見たいと思わされた。隣の席の男性は、今日が2回目の観劇だと言っていた、彼の家庭環境も複雑なのだろうか。

 

 

 

英国人家庭教師が大沢たかおから渡辺謙を寝とる舞台、『王様と私』のレビューと批判

王様と私』を観た。開演前に、隣の席の初老の白人男性が話しかけてきた。「私はレミゼを16回見たが、黒人のエポニーヌは好かなかったね。」彼のその一言が、『王様と私』という作品を表している気がした。

1944年に執筆された、性差別・人種差別・植民地主義・文化帝国主義を題材にした作品を、このwokeness真っ只中の2018年に、50年代の脚本のまま再演するというのだから、作品の内容に嫌気がさすのは当たり前。でも、それらの題材を扱うのだから、せめて今現在の、2018年のプロダクションやキャスティングは、マイクロアグレッション(意識的に行われていない差別)なしでできなかったものかと、上演中ずっと考えさせられた。例えばプロダクションデザインが100%タイの文化や装いに忠実だったとは思えない(公式サイトに特別タイ文化の監修の記載もなければ、セットデザイナーと衣装デザイナーはどちらもアメリカ人とイギリス人)し、“一応”キャラクターの人種に統一性を持たせるタイプの舞台であったにもかかわらずタイ人のメインキャラクターを演じている役者は一人もタイのルーツを持つ人が起用されていなかった。もちろん、“イギリス人”役はどちらもイギリスの俳優が演じているのに(サー・エドワード役はスウェーデン人の俳優が演じている)。

それで、『舞台だから、演者の人種は関係ない』という反論があるかもしれないけれど、じゃあアナ役を同じぐらいの実力がある日本人が演じるとしたらどうなっただろうか?絶対そんなことはありえないのに、アジア人というだけで作中だけでなく、現実のプロダクションでも役者のcultural backgroundが無視されて、国籍問わず正直ネームバリューで起用された俳優がいると思わされた。世界中にどれぐらい、渡辺謙大沢たかおと同じか、それ以上のダンススキル・演技力・歌唱力があって、マルチリンガルなタイのルーツを持つ俳優がいるだろう。私は多分、正しい機会が与えていられないだけで、両手の指では数えられないほどいると思う。もしこれが、“キャラクターの国籍”もただの“設定”である前提の舞台で、黒人や白人の“タイ人役”や、アジア人のレディ・アンがいるような舞台だったなら話は別だけれども、今回のように肌の色できっちりと役者の人種を分けた舞台で、タイ人の俳優を起用していないのは、やはりアジア人差別だと思わされたし、タイの文化にも正しく敬意を払っていないように見えた。

タイ人ではないアジア人と、白人のキャストやプロダクションが、タイの文化を使って観客を喜ばせようとする作風は、とてもグロテスクで、2018年に観賞するには耐えられないほど苦痛だった。途中でタイ舞踊のシーンがあるのだが、どう見てもタイのルーツを持っていないアジア人の役者がタイの民族衣装に身を包み、伝統舞踊を舞う姿は滑稽で、気持ちが悪く、正直見ていられなかった。観客も、手放しで作品を褒め讃える中流かそれ以上の階級の白人か、渡辺謙につられて観劇しにきた(主に日本人)観光客(渡辺謙につられたという意味では、私も人のことを言えない)で、やはりこの舞台は、昔の作品を、昔の価値観を持つ人たちに向けて作ったものなのだなと再確認させられたし、どう考えても私のような人間がターゲットオーディエンスでないのは明確だった。結局、それだけの話。ベジタリアン焼肉屋に来て、文句を言ってるようなものなのかもしれないけれど、それでも意図しない差別を作品のプロダクションから受けるというのは、あまりに近年の、特にイギリスのアートシーンでは予想外だったので、批判の一つぐらいはさせてほしい。

楽しめるアスペクトもあった。イギリスから文化帝国主義を引っさげてやってきた女性家庭教師が、大沢たかおから渡辺謙を寝取るというあらすじは、そのコミカルな三角関係にフォーカスしてみるぶんには充分楽しめた。渡辺謙演じる王が、さまざまな国の文化に晒されて、自分が選んだわけではない国のしきたりやルールに縛られていることを実感しもがく様子は現代に通じるものがあった。大沢たかお演じる王の右腕が、他文化に感化されて塞ぎ込んでしまった王の姿を目にし、アンに「お前さえこなければ」と逆ギレするシーンはまさに男と男と女の修羅場という感じでとてもよかったし、そのシーンの暗転時に悔しさでうずくまる大沢たかおのシルエットが映し出されるのだが、それが見事に美しかった。

観劇中はずっとモヤモヤしながら自問自答を繰り返し、全く集中できなかった。いかにもリサーチ不足のタイ文化の美術は見るに耐え難かったし、『英語ができていない』という点で笑いを取るのも単純というか、残酷というか…視覚的にもあまりに「露骨すぎる」演出が多く、観客に想像で補うという行為を一切許していないように感じた(皮肉にも、それ以外のところで私のような人間はずっと頭の中で議論を繰り返すのを余儀なくされた)。多民族国家で“文化”や“差別”を題材とした演劇を見るのが初めてだから、ここまで批判的になってしまったのかもしれないが、私はもしこれをたとえ日本でみたとしても、プロダクションが日本でないのだから同じ感想や違和感・嫌悪感を抱いただろう。なんだか気持ちの悪い観劇体験だったし、後味も最悪。少なくとも“2018年”の価値観で生きている人には、全くおすすめしたくないと思った作品だった。

 ベン・ウィショー主演 JULIUS CAESAR 10/03/2018  レポ

 JULIUS CAESAR 観劇レポート

(2018年3月10日)

参加型の観劇は初めてで、2時間半立ちっぱなしで大丈夫かなと不安だったけどヒールで行ったの忘れるぐらい舞台に夢中になった。

 

立ち席って言ってもちょっと群衆役させられるだけでしょ?って思ってたけどメチャクチャいい意味で期待を裏切られた。体感ディズニーシーのインディージョーンズみたいな感じ。他の観客と一緒になってもみくちゃにされて、「警備の人」「軍人」に”Get away!!!” “Move out of the way!!!!” って怒鳴られまくってめっちゃ乱暴に押されて(決してマナーが悪かったわけじゃないよ、演出です)本当に内戦(?)に巻き込まれたみたいな感覚。本当に揺れるし押されるしメチャクチャ楽しかった。後半もはやマッドマックス的な流れになって本物の車は登場するし(人力だが)ストロボは焚かれるしでガチで最高だった。音響も、立ち見の地面のとこにスピーカーがついててそこから音が出るから銃声や爆音がほんとうに謎の臨場感で、テンアゲすぎて真剣なシーンも満面の笑みで見てた。

 

ベンウィショーやデヴィッドモリシーの演技が超間近(というかほんとすぐ目の前とか横)で見れるのも最高すぎたし、ステージが次々地面から生えてくるパターンなので運次第で劇を見るアングルが変わるけど、メチャクチャドラマチックな「お前もか、ブルータス」のシーンがベストショットで見れたのもポイント高かった、ほんと絵画みたいだった。手も顔もドロドロの血まみれになりながら観客から笑いを取るベンウィショーほんと美しかった。

 

参加した客としてデモ隊のポスター掲げさせられたり、デヴィッドモリシーが演技してる途中に”Read us the will!!!!” のヤジとばせたのは本当に尊すぎる経験で、楽しさMAXでした。デヴィッドモリシーのセリフ途中にヤジ飛ばすこと多分一生ないだろうな。ただ立ってるだけじゃなくて、本当に参加型の劇というか、アトラクションでした。

 

また、キャストはポスターに載るメインの4人は白人でしたが、サブキャストには黒人やヒスパニック、アジア人女性などがいて、トーケニズムではなくgenuinely diverseなキャスティングに思えました。シアター内のパブでふつうにコーラスのキャストさんが終演後飲んでたのが印象的。ベンウィショーはさすがに表口から出てこなかったけど、デヴィッドモリシーは終演後見かけました。

 

最初は「参加型って言ってもぶっちゃけそんなそんな面白いことないだろ」って思ってたんだけど真剣に楽しすぎたので、ロンドン滞在中などで行くか迷ってる人には是非行って欲しいです。