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舞台の感想とか

英国人家庭教師が大沢たかおから渡辺謙を寝とる舞台、『王様と私』のレビューと批判

王様と私』を観た。開演前に、隣の席の初老の白人男性が話しかけてきた。「私はレミゼを16回見たが、黒人のエポニーヌは好かなかったね。」彼のその一言が、『王様と私』という作品を表している気がした。

1944年に執筆された、性差別・人種差別・植民地主義・文化帝国主義を題材にした作品を、このwokeness真っ只中の2018年に、50年代の脚本のまま再演するというのだから、作品の内容に嫌気がさすのは当たり前。でも、それらの題材を扱うのだから、せめて今現在の、2018年のプロダクションやキャスティングは、マイクロアグレッション(意識的に行われていない差別)なしでできなかったものかと、上演中ずっと考えさせられた。例えばプロダクションデザインが100%タイの文化や装いに忠実だったとは思えない(公式サイトに特別タイ文化の監修の記載もなければ、セットデザイナーと衣装デザイナーはどちらもアメリカ人とイギリス人)し、“一応”キャラクターの人種に統一性を持たせるタイプの舞台であったにもかかわらずタイ人のメインキャラクターを演じている役者は一人もタイのルーツを持つ人が起用されていなかった。もちろん、“イギリス人”役はどちらもイギリスの俳優が演じているのに(サー・エドワード役はスウェーデン人の俳優が演じている)。

それで、『舞台だから、演者の人種は関係ない』という反論があるかもしれないけれど、じゃあアナ役を同じぐらいの実力がある日本人が演じるとしたらどうなっただろうか?絶対そんなことはありえないのに、アジア人というだけで作中だけでなく、現実のプロダクションでも役者のcultural backgroundが無視されて、国籍問わず正直ネームバリューで起用された俳優がいると思わされた。世界中にどれぐらい、渡辺謙大沢たかおと同じか、それ以上のダンススキル・演技力・歌唱力があって、マルチリンガルなタイのルーツを持つ俳優がいるだろう。私は多分、正しい機会が与えていられないだけで、両手の指では数えられないほどいると思う。もしこれが、“キャラクターの国籍”もただの“設定”である前提の舞台で、黒人や白人の“タイ人役”や、アジア人のレディ・アンがいるような舞台だったなら話は別だけれども、今回のように肌の色できっちりと役者の人種を分けた舞台で、タイ人の俳優を起用していないのは、やはりアジア人差別だと思わされたし、タイの文化にも正しく敬意を払っていないように見えた。

タイ人ではないアジア人と、白人のキャストやプロダクションが、タイの文化を使って観客を喜ばせようとする作風は、とてもグロテスクで、2018年に観賞するには耐えられないほど苦痛だった。途中でタイ舞踊のシーンがあるのだが、どう見てもタイのルーツを持っていないアジア人の役者がタイの民族衣装に身を包み、伝統舞踊を舞う姿は滑稽で、気持ちが悪く、正直見ていられなかった。観客も、手放しで作品を褒め讃える中流かそれ以上の階級の白人か、渡辺謙につられて観劇しにきた(主に日本人)観光客(渡辺謙につられたという意味では、私も人のことを言えない)で、やはりこの舞台は、昔の作品を、昔の価値観を持つ人たちに向けて作ったものなのだなと再確認させられたし、どう考えても私のような人間がターゲットオーディエンスでないのは明確だった。結局、それだけの話。ベジタリアン焼肉屋に来て、文句を言ってるようなものなのかもしれないけれど、それでも意図しない差別を作品のプロダクションから受けるというのは、あまりに近年の、特にイギリスのアートシーンでは予想外だったので、批判の一つぐらいはさせてほしい。

楽しめるアスペクトもあった。イギリスから文化帝国主義を引っさげてやってきた女性家庭教師が、大沢たかおから渡辺謙を寝取るというあらすじは、そのコミカルな三角関係にフォーカスしてみるぶんには充分楽しめた。渡辺謙演じる王が、さまざまな国の文化に晒されて、自分が選んだわけではない国のしきたりやルールに縛られていることを実感しもがく様子は現代に通じるものがあった。大沢たかお演じる王の右腕が、他文化に感化されて塞ぎ込んでしまった王の姿を目にし、アンに「お前さえこなければ」と逆ギレするシーンはまさに男と男と女の修羅場という感じでとてもよかったし、そのシーンの暗転時に悔しさでうずくまる大沢たかおのシルエットが映し出されるのだが、それが見事に美しかった。

観劇中はずっとモヤモヤしながら自問自答を繰り返し、全く集中できなかった。いかにもリサーチ不足のタイ文化の美術は見るに耐え難かったし、『英語ができていない』という点で笑いを取るのも単純というか、残酷というか…視覚的にもあまりに「露骨すぎる」演出が多く、観客に想像で補うという行為を一切許していないように感じた(皮肉にも、それ以外のところで私のような人間はずっと頭の中で議論を繰り返すのを余儀なくされた)。多民族国家で“文化”や“差別”を題材とした演劇を見るのが初めてだから、ここまで批判的になってしまったのかもしれないが、私はもしこれをたとえ日本でみたとしても、プロダクションが日本でないのだから同じ感想や違和感・嫌悪感を抱いただろう。なんだか気持ちの悪い観劇体験だったし、後味も最悪。少なくとも“2018年”の価値観で生きている人には、全くおすすめしたくないと思った作品だった。